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2023.10.19コラム

かずやコスメディア、井上です。

昨日ふと、とある疑問が湧いてきました。

 

「合掌」は英語でなんと言う?

 

気になって辞書を調べてみると次のような表現が出てきました。

 

Press hands together(手をあわせる)

Press palms together(掌をあわせる)

Press hands together in prayer(手を合わせて祈る)

 

正直、どれもしっくりきません。と言うよりも、「合掌」の動作を説明こそすれど、その意味を表現できていない気がします。

 

なぜ、これらの表現に満足できないのか。日本語の「合掌」にはどのような意味があるのか。これを今回考えてみましょう。

 

そもそも「合掌」は古くはインドの礼法として誕生し、仏教と共に日本へと渡ってきました。日本に浸透する過程で本来の仏教的作法としてだけでなく、日常的な動作として「合掌」は日本人に吸収されてきました。

 

私たちが「合掌」するとき、それは両の掌をあわせるという動作だけでなく、この動作に何か特別な意味を持たせることが多いのではないでしょうか?

 

私が思いつく限り、合掌には次のような意味があります。

  • 感謝の意
  • 謝罪の意
  • 偲びの意
  • 祈りの意

 

これらの意味を「手をあわせる」という動作と共に状況に応じて使い分けていますよね。例えばご飯を食べるときは「命をいただきます」という意味を込めて①の意味で合掌。待ち合わせに遅刻してしまったときは「ごめん!」という謝罪の意味を込めて②を。お参りをするときは③を。そういえばヨガでも合掌することがありますね。

 

 

このように同じ動作でも、「手をあわせる」という行為が含有する意味というのはその時の状況に応じて多様的です。さらにはいくつかの意味が複合的に発現することもあるため、「合掌」という言葉を一言で説明するのは意外と困難です。

 

「合掌」を英訳した時に感じる違和感というのは、これら言外の意味がうまく表現できていないことに由来しているのでしょう。英語では単に「手を合わせること」しか表現できません。せいぜい祈りの意味を持たせるくらいです。感謝や謝罪の意味として”Press hands together (with gratitude) ”では意味は伝わらないでしょう。というよりも、日本語の「合掌」にあたる表現がそもそも英語に存在しないと言った方が正しいですね。

 

私見ですが、日本人はなんとなく「合掌」と聞けば上記のような意味を自然と使い分けているような気がします。誰から習うでもなく、いつの間にか身についている習慣のようなものでしょうか。

 

様々な意味を「合掌」に込めることができるのは、日本人であることの良さなのかもしれませんね。あえて英語からアプローチすることで、「合掌」についてここまで考えることができました。

 

話が長くなりましたが「合掌」は、他の言語には(少なくとも英語には)翻訳することのできない特別な意味のある動作と言っていいでしょう。今後AIなど科学技術のさらなる発展により、対人コミュニケーションはその様相を変化させていくことでしょう。しかし、私たちはAIに負けない愛ある心で合掌にて、感謝やお偲びの気持ちを表現させていただきたく思います。AIには心のこもった合掌はできないでしょうからね。

 

皆さんは「合掌」にどのような意味を込めていますか?稚拙な推考にお付き合いいただきありがとうございました。

 

かずやコスメディア 井上


2023.10.5コラム

日が落ちるのも徐々に早くなり、夜も少しずつ涼しくなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

昨年、9月に入社して、早1年が経ちました。お客様を担当させていただいた数は、まだまだ少ないのですが、先日、初めてキリスト教のお客様をご担当させていただくことがありました。

キリスト教のご葬儀は、参列者としても経験したことがありませんでしたので、とにかく、ご担当の牧師様に、いろいろと質問をいたしました。

故人のご自宅に牧師様がみえられたときに、遺族の皆さんとお祈りをされました。その時に「パン」という単語が出てきました。

 わたくしごとですが、私の家にはホームベーカリーがあり、週に1回程度パンを焼くことがあります。普通の方より私はパンが好きな方だと思います。そのため、聖書の一文に「パン」が登場したことに、とても驚いてしまいました。

 聖書において、「パン」が登場する場面は、新約聖書のいわゆる「最後の晩餐」です。イエスがローマ総督府に引き渡される前に、弟子たちと最後の食事を共にし、自分の記念としてこの食事を行うよう命じたことが記されています。これが「最後の晩餐」です。共観福音書によればイエスは「パン」を取り、「これがわたしのからだである」といい、杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちにワインを与えました。

パンとワインを、自分の体と血として弟子たちに飲食させることには、自分の死によってもたらされる贖罪と救済に彼らを与らせ、神との交わりに参入させようという意図を読み取ることができます。この儀式を繰り返し行うようにというイエスからの指示は、弟子たちがパンとワインを飲食する度に、イエスの死の意味を心に刻み、その都度新たに救いの力に与るようにという、イエスの願いを表すものなのでしょう。最後の晩餐物語を伝える 1 世紀のキリスト教徒たち は、そのような認識をもってパンとワインによる儀式を行い、それらをキリストの体と血として飲食していました。

 

 普段何気なく食べているパンですが、「キリスト教」においては、とても重要な役割を担っているということに、とても驚きました。

 つたない文章におつきあいいただき、ありがとうございました。

 

かずやコスメディア 東 利廣


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