「葬儀の歴史 5」
最近雨も増え、安定しない お天気が続きますが いかがお過ごしでしょうか?
今回のコラムも引続き葬儀の歴史について書いていきます。
臨終に際しては、西方を向いた阿弥陀仏の前に病人を寝かせて 仏の右手に五色の糸をつけ病人の左手に その糸を結んで念仏を数十遍唱えながら寝入るように亡くなると極楽往生間違いなし、と言われたそうです。
こうした臨終の作法を「臨終行儀」と言いますが、臨終に際しての阿弥陀仏への帰依(きえ)は葬祭における阿弥陀仏信仰を決定的にしたようです。
二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)は広く影響を与え、各地に「二十五三昧講」が作られました。しかし12世紀になると、往生院は臨終に際してのものではなく墓堂化して、死後の葬祭のことへと変化していきます。
また こうした念仏講は、擬死(ぎし)再生の逆修、つまり一度往生することで穢れが清められ、病気が治り、長生きでき、安楽死できる として民間の間に流行し信仰を集めたようです。
死後のこととしてだけでなく、臨終を大切にしたことで二十五三昧会は特筆すべきですが、また「欣求(ごんぐ)浄土 厭離穢土(えんりえど)」は 現世を厭い早く往生しようと僧侶の中に自死の流行も引き起こす結果となってしまいました。
源信は985年「往生要集」を著しました。第1章「厭離穢土(えんりえど)」は 地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天 の六道の苦しみを述べて そこから逃れ出るべきことを説きました。 特に その地獄の描写の凄まじさは有名です。
第2章「欣求(ごんぐ)浄土」は極楽浄土のすばらしさを説き、第3章「極楽証拠」では極楽が他と比較してすばらしいことを論証する、というように展開した全10章からなる大書で、念仏による浄土信仰に関する百科全書のようなものです。
浄土教の系譜にある人々は地方へ、民衆へと入っていき中世前期には庶民の葬祭は浄土宗の手にあるようになったと言われるほどになりました。
成立年代は不明ながら、鎌倉時代あるいは室町時代の貴族・武士の葬儀の次第を書いたものに「吉事次第」あるいは「吉事略儀」があります。「吉事」とあるのは「凶事」を嫌って言い換えたものと言われます。
死亡すると「御座(ござ)直し」が行われます。 北枕にして筵(むしろ)の上に寝かしなおし、屏風(びょうぶ)や几帳を立てめぐらし、枕元に灯明を1つ立てて消さないようにし、香をたき、夏は酢を鉢に入れて死者の鼻の近くに置き、人々も僧侶も屏風の外に侍ります。
次は入棺です。 棺の中には香と土器(かわらけ)の粉を入れます。 臭いをとるためではないかと思われますが、その他 お茶の葉など香りの高いものを入れたようです。
入棺する役の人は紙ひねりで腋帯をするとあります。筵(むしろ)ごと棺に遺体を納め、枕を入れ、着物の上から引覆(ひきおおい)をかけます。引覆の上から頭、胸、足の3カ所に土砂加持の砂をかけます。棺に蓋をし、布の網で縛ります。そして北枕で安置します。
ここには書かれていませんが、当時は湯灌も行われていたようです。
早朝に山作所と言われる墓を作ります。当日 素服という粗い布で作った喪服を裁縫し、夜になるとその素服を着て御仏供養を行い、出棺となります。
棺は御車(牛車)に入れて火葬場まで運びます。
出棺すると寝所を竹の箒(ほうき)で掃き、塵や箒は川、あるいは山野に捨て、枕火を消します。
火葬場には荒垣をめぐらし鳥居を建て、その中に小屋を作ります。火葬は小屋の中で行います。
火葬場に御車が到着すると導師と呪願の僧侶が御車の前で儀礼を行い、柩を小屋に移して火葬をします。近親者や僧侶はその間、真言を誦します。
火葬が終わると火は湯で消し、灰は水で流します。骨を拾いますが、各自が箸ではさんで次々と他の人へ渡していきます。
遺骨は甕(かめ)に入れて土砂を加え、蓋をして白の革袋に入れます。
召使が遺骨を首にかけ三昧堂(高野山や納骨する寺)に運んで納骨します。納骨する際には御堂の仏壇の下に穴を掘り、その中に納骨し、上を石で覆い、石灰を塗り固めておきます。
帰宅する前に藁(わら)で作った人形で手祓い(てはらい)をします。
今回は ここまでになります。今も目にする言葉や作法が出てきますが、昔から受け継がれているんですねー。少し感慨深いです。
お付き合い頂きありがとうございました、また宜しくお願いします。
かずやコスメディア 山路