朝のリレー
カムチャッカの若者がきりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女がほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球ではいつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
谷川俊太郎 『朝のリレー』
『朝のリレー』は今から20年ほど前、コーヒーのテレビCMに起用されたこともあり、多くの方が知る有名な詩の一つではないでしょうか。世界の夜と朝、東西南北の街を対比し、世界の人々が朝を繋ぎ皆で地球を守るという内容に、アメリカ同時多発テロやイラク戦争勃発など、当時の世界情勢からこの詩は多くの方々の印象に強く残ったように思います。
ここで唐突に「葬儀」の話を持ち出すのは、少々場違いに思われるかもしれません。しかし、よく考えてみると葬儀もまた“命のリレー”のひとつの場面ではないでしょうか。
誰かが亡くなられた時、私たちはその人の人生を振り返り、感謝し、そして何かを受け取る。それは思い出であったり、言葉であったり、いずれにせよ私たちはその人の“朝”を受け取って、自分の時間の中に組み込んでいく。
仏教には「縁起(因縁生起)」という言葉があります。すべての存在は、他の存在との関係によって成り立っているという考え方です。誰かの死は私たちの生に影響を与えている。大切な人が亡くなられたから今の自分があり、大切なその人が去られたからこそ、今の自分が何かを受け継いでいると思えば、葬儀は悲しみと別れだけの場ではなく、感謝と継承の場といえます。
「ありがとう」と伝え、「これからは私がバトンを受け取り走ります」と誓う。走るペースは人により様々ですが、どんなペースでも、大切なのはバトンを受け取り、自分なりの“朝”を迎えることではないでしょうか。
とある寺院の掲示板で、「眠れない夜を嘆く者は多いが、目覚めた朝に感謝する者は少ない」という標語を目にしました。私たちが苦しみ(夜)に敏感であり、恵み(朝)には鈍感であると考えてみれば、仕事上、様々なご遺族のお別れの場に立ち会う身として、迎えて当たり前の“朝”は何かを受け取った特別な“朝”であることに感謝できる人間になれるよう努めてまいりたいと思います。 合掌
かずやコスメディア 田中丈詠