「葬儀の歴史 4」

暑さがだいぶ和らいできていますが、その分朝晩の寒暖差で体調など崩されていませんでしょうか?

今回も引続き葬儀の歴史について書いていきますので、お付き合い頂ければと思います。

火葬は仏教の葬法といわれ、記録によれば700年に僧 道昭のときが最初とされています。

しかし考古学上は5世紀後半頃の遺跡から焼骨が発見されていることから、6世紀半ばの仏教伝来以前から日本でも火葬が行われていたようです。

 とはいえ、人工的に遺体を焼却する葬法である火葬が日本人に受け入れられていくには、白骨化は成仏のしるしとする仏教による火葬の意味づけが必要でしたし、以後 仏教葬と火葬は深く結びついて発展していきます。

天台宗の開祖 最澄は812年 比叡山に法華三昧堂を建立し、法華三昧を日本に初めて紹介しました。 この法華三昧は「法華懺法(ほっけせんぽう)」とも言われ法華経を読経することによって、この身が清められる「罪障」(極楽往生の妨げとなるもの)が消滅するという考えから行われたもので、「三昧」は心を一事に集中して余念のないことを意味します。

三昧聖に法華経を唱えさせると死者の霊を清め、滅罪し、地獄に堕ちないという信仰が強まり葬儀で重んじられ、死者供養や菩提(死者の冥福を祈ること)のために用いられるようになったと言われます。 滅罪しないと地獄に行き往生できないという不安がいかに強かったかが うかがえます。

この天台宗で もう一つ重んじられたのが常行三昧です。 阿弥陀仏の名を唱えながら修行する事で、後の浄土教に道を開くものでした。 念仏によって往生を願う常行三昧は、法華三昧による滅罪と対になって信仰を集めたそうです。

 常行三昧の修行をする所は、常行三昧堂や阿弥陀堂と呼ばれました。 藤原三代を祀った東北平泉の中尊寺金色堂も常行三昧堂の様式にならったものと言われます。

 法華三昧、常行三昧の流行により、天皇家や貴族は法華堂や三昧堂に納骨することが多くなり、また死後納骨するために これを建立するということが行われました。 こうしたことから次第に寺院へ納骨するようになっていったと思われます。

 後に三昧堂は、墓所・葬場を意味する語として使われるようになります。

この時代は天皇や貴族の葬法は全てが火葬というわけではなく、土葬もありました。

土葬の場合 霊屋(たまや)という小屋を作って その中に仮に遺体を安置したのですが、実際には骨化するまで待っていたようですから、土葬というより風葬に近いものと言えるかもしれません。 白骨化するまで安置された遺体は、この後 正式に埋葬または納骨されたという記録もあります。 土葬地帯では この名残が埋葬場所の上に霊屋を安置しておく習俗となって残っているほか、火葬された場合でも墓に小型の霊屋を置く習俗が残る地域が現在もあるようです。

986年 比叡山の僧侶25名が集まり「二十五三昧会」という集団を結成しました。 毎月15日には集まって念仏三昧をし、「最終臨終には相助け教えて念仏せしめん」と、臨終にある仲間は皆で助けて念仏させ、極楽往生させようとする浄土教の一種の死の結社でした。

この中心になったのが慶滋康胤(よししげのやすたね)と恵心僧都源信です。

 同志に病人が出ると皆で看病し病が重くなると往生院という建物に移し、励まし合って死に臨んでいる者の心を乱さないようにし、死ぬと遺体に光明真言をもって土砂加持をし、3日のうちに墓所に卒塔婆1基を立てて葬る。 同志の葬式には必ず出席し四十九日までは7日ごとに集まって念仏を修する。 春秋2回同志が集まって念仏を修する。 過去帳に名前を記し祥月にも供養する  、とあります。

 往生院は現在のホスピスを連想させるもので、この臨終行儀としての念仏が現在の枕経の原型と言われています。

今も耳にする様な言葉や歴史の授業で習うような文言も出てきましたね、少しでも興味を持って頂けると幸いです、お付き合い頂き ありがとうございました。

かずやコスメディア 山路

過去の「葬儀の歴史」は下記リンクより

FacebookXLine