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2023.06.3コラム

6月といえばやっぱり梅雨が一番に思いつきます。あじさいやカタツムリ、ジューンブライドや父の日もあります。仕事柄、6月の行事を検索してみると鑑真、最澄、空海が出てきました。中学校の歴史で登場するあの有名な3人が6月に縁があるようです。唐招提寺、天台宗、真言宗、どれが最澄でどれが高野さんで?延暦寺?など、紛らわしかった記憶がよみがえってきました。

まず奈良時代に来日したのが唐の僧、鑑真742年。当時の日本は僧侶に位を与える偉い人がいなかったので遣唐使として中国で修業して授戒を授けてこなければならず、仏教を広めるのに時間がかかる為、それを日本で出来るようにしようとお願いしたのが鑑真でした。それから11年間で5回の渡航の失敗。当時の船旅は危険なのはもちろん、同行する弟子たちの妨害や、悪天候もあったようです。しかし753年にやっと来日することができました。鑑真66才でした。

翌年、大宰府戒壇院で初の授戒を行い、またその翌年には平城京に到着し、聖武上皇、孝謙天皇から厚遇されました。東大寺に住み、日本の戒壇の設立と授戒を全面的に任され、律宗の祖として戒律制度を整備していきました。

東大寺で5年過ごし、奈良に唐招提寺を建立しそこで5年を過ごし、763年6月6日76才にて生涯を終えました。そこで毎年6月5日~6日開山鑑真大和上の命日にちなんで、大和が請来した舎利を承り、大和の徳を偲ぶ鑑真和上座像御影堂障壁画特別開扉、開山忌舎利会が行われるようになりました。

その後、平安時代に登場するのが最澄と空海です。最初に、最澄は比叡山延暦寺を立てた天台宗の祖で、7歳下の空海は高野山金剛峯寺を立てた真言宗の祖です。2人は804年遣唐使として中国に渡りますが、最澄は785年19才の時、東大寺で具足戎を受け国から正式に僧侶と認められ、802年桓武天皇から唐への短期留学の勅命を受け804年に九州から渡航しました。空海は得渡したばかりの無名の僧で、自費での留学でしたので身分も違う上、面識もなかったようです。

最澄は仏教の名山、天台山に入り仏教の経典のひとつ「法華経」を学び、最後の一か月程度は当時の最先端の密教を学び1年後の帰国が決まっていたので本格的に学べず帰国しました。空海は長安に入り青竜寺の恵果から大日如来を本尊とする「密教」を学び三ヶ月で最高位の阿闍梨を授かり密教の後継者の一人になりました。

唐で2年を過ごした空海は806年に帰国、当時の実費留学は最低10年は唐で学ばなければ帰国を許されない中、2年で学び終えて帰国しました。

先に帰国していた最澄も実際に中国へ行ってみると真言密教のほうが最先端で盛んだったので、真言密教ももっと勉強したかったという思いで最澄の方から年下の空海に弟子入りを願い交流が始まりますが、「釋理趣経」借覧の件や最澄の愛弟子泰範の離反の件などにより平安仏教の二人の大物は決裂することになりました。

最澄はこれまでの戒律と比べ、比較的緩やかな「大乗戒壇院」の建立を目指します。しかし、これまでの伝統的な戒律に反していたことから、奈良を中心に栄えていた南部六宗と対立を深め、大乗戒壇院建立の実現は死後7日目の事になりました。822年6月4日56才で遷化された最澄はのちに日本最初の大師号「伝教大師」の諡号が送られました。

毎年6月4日の命日には延暦寺をはじめ、各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われます。

空海は816年高野山に「総本山金剛峯寺」を修禅の道場として開創し、823年には東寺を嵯峨天皇から賜わり「教王護国寺」と称して高野山と並ぶ真言宗の基盤を確立しています。

835年空海は自らの死期を悟り、弟子たちに遺言を遺し同年3月21日(旧暦)62才で入定(死ではなく永遠に深い瞑想に入る事)。いまも「奥の院」で生き続けているとされています。入定後、921年に後醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が賜られました。そのため、命日の法要ではなく6月15日のお誕生日とされる日が青葉祭りとして行われます。令和5年の今年はお大師様が生まれた1250年の節日の年で、6月15日を中心に5月14日から7月9日までの57日間「いのちよ輝け~大師のみこころと共に~)という記念大法会が行われています。ここまでが6月にちなんだお話で、長文になりましたが鑑真、最澄、空海を語るにはかなり省略した内容になっております。皆様の興味のきっかけになれば幸いと思います。

 

 

かずやコスメディア川橋


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